校門の坂を上がっていくと、「この坂越えん」と中央玄関の横、学校名の下に銅板にこの言葉がかかっていた。
緑錆で、文字はかろうじて判読できる程度、卒業生の寄贈である。
夏は下駄を履いて自転車、冬の雪道は長靴で徒歩、3年間通った。朝は、息を切りながら、遅刻しないようにと、砂利道の坂を駆け上って行った。確かにこの坂はつらかった。
この度は、同校の先生がリフォームのお客様で、工事関係書類をお届けする都合で、数十年ぶりに登校した。
昔の面影を探したが、敷地内に段々坂がいくつもあった以外は、ほとんどが立派になって、見違えた。慌ててスマホで引き算すると卒業以来丁度60年である。当然あの時の恩師はもう居ない。当時の梶浦校長の写真が懐かしい。
玄関は、外から開かない自動ドアで、相棒の横田さんがインターホン越しに用件を伝え、ドアを開けて貰った。入ると、もう一つ自動ドアがあった。そこはワンタッチで開いた。風除室と理解したが、円い小さな窓越しに、中の様子は良く見通せない。よくある公共施設の全面ガラス張りの両開き引戸ではない。
なんとも厳重である。簡単に人を寄せ付けない。他の学校もこうなのかと、ふと思う。
授業中の為、生徒たちの声は、全く聞こえて来ない。静かだ。これは、私たちの頃より、緊迫感を感じる。
生憎お客様は授業中で、私は、横田さんが事務の人に書類を手渡ししている間に、階段をトントンと上がって、踊り場から眼下の札幌を見渡した。この光景には目を見張った。
あの頃、夏は遠くに日高山脈の山々、十勝岳の爆発の瞬間の噴煙も見えた。冬は、どこも石炭ストーブを焚く煤煙で、街並は、濃い鼠色に完全に覆われていたが、不思議とは思わなかった。丘の上から、自分の家が全く見えない日が多かったが、晴れた北風の日は、石狩平野の白さ、空の大きさに感動したものだ。
今日は、中心部のオフィスビルの広がりの中で、北から南の果てまで視界に入る限り中高層マンションがぎっしり立ち並ぶ。豊平川は見えない。石狩平野は遠ざかってしまっている。
60年ぶりなので、校内を一巡して、屋上にも上ってみたいと思ったが、あんまりの静寂に気後れして、遠慮した。
今回のお客様の工事が終わって、いい評価を頂けたら、再度「旭丘」を訪ねて、校内見学をしてみたい。
生徒たちの休み時間を狙って、行ってみようと思う。どんな生徒たちが出てくるだろうか。皆様も母校に行ってみませんか。
令和6年11月18日 漆 公彦
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