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執筆者の写真公彦 漆

こどもの日

近、鯉のぼりがあまり見られない。私の家には次男家族が同居しているが、三人の孫は全員女の子の為、鯉のぼりの話題は出ない。昨年末、向かいに新築して引っ越してきたご家族には、男の子がいて、庭先で遊んでいるのを見かける。しかし、鯉のぼりは上がらない。


私達夫婦が3人の子供と石狩に来た昭和50年台、何処にも競うように大きな鯉のぼりが立った。今、町内には、ほとんど見かけず、あっても目刺しの様な大きさで、誠に寂しい。

 うちの小2の孫娘「ともちゃん」が、最近自分のことを「私」ではなく「僕」というようになったので、「鯉のぼりを上げるか」と差し向けると大喜びの反応で、気に入った。

 早速、押入れの奥から、すっかり色あせた段ボールを開けると巨大な鯉が4匹出てきた。

 

 私がこの鯉昇りを買ったのは、もう40年も前でした。男の子が三人立て続けに生まれたので、当時私も気張って、店先で一番大きい鯉のぼりセットを買ったんだと思う。但し、金属のポールは高くては買えなかったので、勤め先の足場かけの社長に頼んで、丸太を一本運んで貰った。


長すぎて三角屋根のてっぺんより高く、「屋根より高い鯉のぼり」が実現した。

石狩の強い風に倒されそうになり、1M位の穴を掘って差し込み、三方にロープを張って固定し、ようやく4匹泳いでくれてた。子供達に面目を施したが、その後毎年の作業は大変だった。当時の写真が残っていました。


 その頃、現場の足場と言えば、道産カラ松の間伐材でした。皮をむいて現場に運んでくるが、皮に触ると細かい棘が刺さって無性に痛い。生木の場合は結構重たいので、年取った土工さんたちは大変だった。現場に来られる施主さんもうっかり触って、ひどい目に合う度に、頭を下げた。職人さんたちも不安定な足場で、事故も多かった。


 子供達が小学校を卒業するまでは、毎年丸太を立てた記憶はあるが、世の中は高度成長期に入り、現場から足場丸太が消え、金属パイプに代わって、住宅ブームもV字路線で成長、私の仕事も死に者狂いに忙しくなって、いつしか鯉は押入の中で、冬眠から目覚めることは無かった。


 正直、こんなに大きい鯉とは思わなかった。二階のベランダから、壊れた二段梯子の片割れを、庭の片隅の鉄骨フェンスに立て、ロープを張って、3匹だけ吊ってみた。

 高さが足りず、尾っぽが畑の土に付いてしまってだらしない。運よく風が吹き始め、泳ぎ始めた。子供達の歓声が上がった。飛び上がって喜んでいる。ともちゃんは、見上げながら「屋根より低い鯉のぼり~~」と歌い始めた。

息子に「やって良かったべ~」と声を掛けた。


 近所の人たちも、大きさにたまげた様子で、声をかけてくれる。こちらも照れ笑いをして、昔話で言い訳をする。5月3日の出来事である。来年も孫娘が「ぼく」と言っていたら、もう少し早くから準備して、もう少し高く上げたいと思う。

何とか、鯉の滝登りの様に、平和な一年に向かって、力強く進んで欲しい。


令和4年5月3日        漆 公彦







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